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おこのみやき

「意味不明」の代名詞といえば
「現代アート」ということになるだろう。

描いた線を消しゴムでを消して展示したり、
動物を輪切りにしてホルマリン漬けにしたり、
街中で清掃活動をしたり、
美術館の中でマラソンしたり。

観る側にとっては、
まずその「意味不明さ」を楽しむことから始まるのだろうが、
現代アートほどになると、
その作品ほぼすべてが「意味不明」だから、

「この意味不明さはグロテスクでキモいね」とか

「この意味不明さはちょっと懐かしさを誘うね」とか

感覚的にものは言えても、
元々が意味不明なものだから、
個々人の好きとか嫌いというところまでは中々落とし込めない。
よっぽど「意味不明」な状態に耐性のある人でなければ
だんだんとどうでもよくなってきて、
それらをアートとか作品として
鑑賞することをしなくなってしまう。

現代アートを嗜(たしな)むには
少しコツが必要なようで、
それは、ミルフィーユのように重ねられた、
作品の意図だとか、作者自身の思想だとか、時代背景だとか
そういったいくつかの「層」の重なり具合を楽しむ、
ということらしい。

たとえば、
意味不明の元祖、マルセル・デュシャンは、
展覧会に、突然「便器」を展示した。
(この「便器」から現代アートが始まったと言われている。)

この作品(便器)には、
そもそも芸術とは巧くきれいに描かなければならないものなのか?
そもそも自分で作らなきゃいけないのか?
どこにでもあるけど、それでもいいんじゃないか?
だいたい芸術なんてエログロなんだから便器くらいでいいんじゃねえか?
また、作品(便器)発表当時の、
第一次大戦中という社会情勢に対する”否定”の態度など、
デュシャンの様々な思惑が重なりあっている。
それは見事なミルフィーユ(便器)なのである。

デュシャンが切り開き、
その概念の領域を拡張し続けてきた現代アートであるが、
だがしかし、
まだどうしても超えられていない致命的な壁があるように思う。
それは、アートというものに常につきまとう
「なんか鼻につく感じ」。


「あたしって現代アートとかけっこう好きでー」

(って言ってる自分がけっこう好きでー)

「この作品は、カクカクシカジカで、
現代のアートシーンの中での位置づけとしてはモグモグパクパクで、
おれとしては結構、評価できると思うんだ」

(って言っているおれのことを、おれは結構評価できると思うんだ)


こういったスノビズムのようなものは、
きっと芸術というものが生まれた時から寄り添ってきたもので、
ある意味では欠かすことのできない一つの要素だとは思うが、
しかし、既成の概念を否定し、破壊し、拡張を続けてきたアートが
次に超えるべき壁とは、この
「なんか鼻につく感じ」
なのではないか。
アートが「アートである」という衣服を脱ぎすてた時、
そこに見えてくるものとは一体、何なのだろう?


その答えは、もしかしたらこれなのではないか。


『オコノミバー&イタリアーノ ”ドロップキック”』。


外観がメキシカンなこの店の前を通りがかったとき、
ふと、
そんなことを考えた。







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2011年08月03日 | 未分類
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